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NOと言えない日本人、ごめんと言えないイタリア人

話し合い文化の違い

私は日本に生まれて日本のやり方に慣れてきました。イタリアに二度留学していろいろなことを学びましたが、そこにはたくさんの違いがあることを知っています。

小さいことから大きいことまでたくさんの違いがある日本とイタリアですが、その中の一つは「話し合いのし方」です。今回は、この話し方の違いについて、イタリア語の表現の解説を織り交ぜながら書いていきたいと思います。

 

NOと言えない日本人

日本人は、話し相手が何かを提案してきた時に、それが自分にとってあまり嬉しくない、好ましくないモノであったとしても「ノー」ということができません。はっきり物事をいうのを嫌う文化だからです。断る時は「ちょっと...」とか「いや〜その...」などと言ってごまかさなければなりません。これが礼儀だからです*1日本人はNOと言えないのです

筆者もその日本文化に存分に浸っていて、「はい」「いいえ」をはっきり言えません。イタリアで買い物をしていた時に、ある靴を買うか買わないか散々迷って買わないことにしたことがありました。しかし、相手をしてくれた店員さんに申し訳なくて、「あのー、そのー...」なんてもじもじして言い出せずにいたら、「あなたは買うの、買わないの? "Sì o no?(スィー オ ノ?)"(「「はい」なの「いいえ」なの?」)と強めに問い詰められたのはいい思い出です。

当然イタリア人は日本的なごまかす言い方をよしとしません。常に「はい」か「いいえ」かをはっきりさせて欲しいと思っています。嫌な時は「ノー」とはっきりいうことを期待される社会ですから、自分の立場表明はきちんと行わなければなりません。「ノー」とはっきり言えることがいいことなのです。些細なことのようですが、イタリア人は相手がはっきりしてくれることを望んでいるので、あまりにも相手が優柔不断・曖昧模糊だと愛想をつかしてしまいます。さらに「早く答えれば答えるほどいい」といった風潮もあります。「うーん」とか黙り込んでいると答えを催促されます。「はよぅはよぅ」と横で音頭を取ってきます。

 

ごめんと言えないイタリア人

「ノー」とはっきりいうイタリア人は、つまるところ自分の意見を最大限に押し出し、それを頑なに守りきるということでもあります。つまり彼らは「ごめん」の一言を言いません

世の中には自分の意見と相手の意見のどちらが正しいと言い切れないことは山ほどあります。私もその類のことでイタリア人と議論(喧嘩)をしたことがあるのですが、私がどんなに嫌な思いをしたかということを伝えても、彼らは驚くほど「ごめん」の一言を言いません。こちらとしても腹が立って、なんども「君の考え方はわかった。でもそれは私の考え方と違うよね?そのせいで私は嫌な思いをしたんだから「ごめん」の一言を言ってくれ」とお願いしたこともあります。しかしこういうと大抵「私は間違っていないから謝る理由がない」という返答をもらいます。つまり、彼らの中では「ごめん」というのは「自分が誤っている」と感じた時にのみ使う言葉であり、「相手を傷つけた」「相手が嫌な思いをした」というだけでは使わない言葉なのです。イタリア人は「ごめん」と言えないのです

日本人は謝りすぎる、と言われることがありますが、これは自分が正しいか相手が正しいか関係なく、とにかく相手に迷惑をかけた、相手が嫌な思いをしたならば謝ろうという姿勢に基づくものです。特に正しい意見がない時に、「ごめん」の一言で相手の気持ちを慮っているという意志表明なのです。

 

相手の気持ちになりすぎる日本人と相手の気持ちを汲み取らないイタリア人

あくまで個人的な感想ではありますが、あながち間違っていないのではと思っているのが「日本人は相手の気持ちを考えすぎるがイタリア人は逆に相手の気持ちを一切汲み取らない」という私の一般化です。

日本人にとって「話し合い」とは「自分という人格と相手という人格のぶつかりあい」ですが、イタリア人にとっての「話し合い」とは「あくまで意見と意見のぶつかり合い」という認識です*2。つまり、日本人は自分の意見が否定されることを自分の人格の否定と取りやすいのに対し、イタリア人は、それはそれ、私は私という独立した立ち位置を貫くということです。

では、イタリア語には「相手の気持ちになる」という表現がないかというとそんなことはありません。例えばこんな言い方があります。

 

mettersi nei panni di qlcu

(直訳)〜(誰か)の服を着る

「気持ちを汲み取る」

 

"mettersi"というのは「置く」というのが基本義の"mettere(メッテレ)"と、"si"という再帰代名詞を一緒にしたもので、一緒になることで「(服を)着る」という意味になるます。「自分を何か(服の中)に置く」というようなものですね。つまり、「誰かの服を着る」というのは「誰かの気持ちになる」という意味になります。

個人的になんどもこの表現を使って、「私の気持ちを汲み取ってくださいよ」と言ったことがありますが、だいたいはこんなこと言っても無駄でした。気持ちを汲み取ることは話し合いとはあまり関係ないからですね。

面白いことに分かり合えない時の諦めの表現ももちろんあります。例えばこんな表現です。

 

Mettiamoci sul fatto che non ci capiamo 

(直訳)分かり合えないという事実に腰をかけよう

「意見の違いということで妥協しよう」

 

"mettiamoci(メッティアーモチ)"というのは先ほどの"mettersi"の一人称複数形の命令の形です。ここでは「自分たちをどこかにおきましょう」くらいの意味です。その後の"su(ス)"というのは前置詞の「上に」ですから、つまり上に腰掛けようくらいの意味になります。どこに腰掛けるのかというと"fatto che non ci capiamo"、「私たちが分かり合えないという事実」の上です。

これも個人的に議論が平行線をたどっているときに使ったことがありますが、しかし、こういった表現(最下部の追記を参照)で話を終わらせようとしても、大抵、「うーむ」とか言われてあまり納得がいく表情をしたイタリア人を見たことはありません*3

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イタリア語の「ごめん」は日本語より罪の意識が深い? 

イタリア語で日本語の「ごめん」に対応する表現は"scusare(スクザーレ)"です。語源的には「自分の責任を認めること」ですから、おそらく彼らにとっての「ごめん(scusami スクーザミ;命令形+目的語「私」」)は、「自分に責任があるとき」のみに使うのでしょう*4。こう考えてみると、日本語の「ごめん」は、自分には責任がないけれども、相手の気持ちを考慮しての「遺憾の気持ち」を表すためにも使えるのかもしれません。イタリア語ではこのような「遺憾の気持ち」を表すためには、"dispiacere(ディスピアチェーレ)"「悲しませる」を使った"Mi dispiace ミ ディスピアーチェ(私を悲しませる)"を使います。

つまり、「イタリア語の「ごめん」は自分に責任があるときにしか使えないが、日本語では自分の責任がないときにも相手の気持を考慮するときに使える。イタリア語では相手の気持を考慮するときには別の表現を使う」ということです。

この辺の感覚のズレが「イタリア人は謝らないなあ」につながっているのかもしれません*5

 

こうした傾向はどんな影響をもたらすか

日本人は、特に友人関係においては、何か意見がぶつかると、相手のことをおもんぱかり過ぎて、徹底的な話し合いをしない傾向にあります*6。イタリア人は逆で、徹底的に話し合いに話し合いを重ねます。これはどちらも一長一短です。日本人のやり方は相手の気持を尊重するので心地よい場合が多いですが、終わってみたときに何が残るかというと、不燃焼感です。これはグチにつながったり、「こないだのあれさー、やっぱ違うと思うんだよ」などという後々関係ないところで関係ない議論をしだす「ねちっこさ」にもつながります。イタリア人は、議論をしているときは比較的腹立たしいほど自分の意見を曲げないし、相手の気持を考えませんが、議論に勝とうが負けようが、「終わったらその話はそこまで」、というスタンスの人が多いです。終わったあともねちっこく続けることはありません。

どちらか一方が優れている、とは言いにくいのですが、こういった日々のスタンスの違いが、意外な魅力になったり、細かなストレスを積み上げたりします。

 

 

こういう細かな違いをこえたところに、きっと本当の異文化理解があるはずです。 みなさんもぜひ考えてみてください。

 

追記(2017/08/20)

横線で消した部分ですが、 この記事をアップしたところ、複数名から当該部分の表現が若干おかしいとのご指摘をいただきました。お詫びして訂正いたします。イタリア語で「分かり合えないから妥協しよう」というときは以下のような表現があるそうです*7

 

Mettiamo che non ci capiamo.

「分かり合えないってことで」

Arrendiamoci al fatto che non ci capiamo.

「分かり合えないということで諦めよう」

Visto che non ci capiamo, lasciamo perdere.

「分かり合えないみたいだから、おいておこう」

Va bene, tagliamola qui. Tanto non ci capiamo.

「おk、ここでやめよう。どうせわかりあえないさ」

Ognuno rimane della sua idea.

「それぞれがそれぞれの意見をもっているということで」

 

そうすると、せっかくのHさんからのかわいいイラストが無文脈なものになってしまうのですが、可愛いのでこれだけはそのままにしておきます。

 

*1:この点は日本語教育の世界でも徹底されて教え込まれます。つまりこれができてはじめて「日本語が話せる」ということになるのです。

*2:もちろん過剰な一般化であることは間違いありませんが、傾向としてはあながち間違っていないのかなあ、と思っています

*3:イラストはHさんからのもらいもの

*4:とはいうものの、いろいろな使い方ができるので必ずしもこう言いきっていいかはわかりません

*5:この事実に気づかせてくれたNさんに感謝します

*6:異論はもちろん受け付けます

*7:指摘をくれたFくん、Eさん、Cさんに感謝します