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無理に誰かを愛さなくてもいいんじゃない?

私が愛について語ることなど到底できないのですが、イタリア人のTiziano Ferro(ティツィアーノ・フェッロ)が愛をテーマに歌ったTroppo buono(トロッポ・ブオーノ:優しすぎ)がとても深くていい曲だと思ったので全訳と簡単な解説を書きたいと思いました。小学生みたいな書き出しですみません。
 

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私も聖人ではありませんから人並みに人を傷つけ、傷つけられてきました。傷つけられたときはもちろん、傷つけたときも大変に自分を責め、失望し、悲しみ、そして時に虚しさを感じていました。ロマンチックですみません。
 
その中でも私が一番苦しみを感じたのは、愛しているはずなのに、なぜか相手とうまくいかない、なぜか相手に苛立ちを感じる、というときでした。おそらく、理由もよくわからずなんとなくで無理に相手を愛そうとしていたのでしょう。意味不明ですみません。
 
そうした時に、その状況を打破するためにはどこかで一歩を踏み出さなければならないわけです。それのきっかけが自分からだろうと相手からだろうと、どこかでケリをつけなければなりません。なぜなら、無理に誰かを愛することほど無意味で苦痛なことはないからです。小学生みたいな月並みな意見で恐縮です。
 
さて、Tiziano FerroのTroppo buonoはそういう観点から解釈してみると、とても深く、共感できる歌でした。そこで、当記事では2012年に発表されたTroppo Buonoを全訳し、解説(解釈)をしてみたいと思います。
 
歌詞と和訳
 
Troppo buono 
優しすぎ
 
La metà di una bugia non fa la verità
Quindi nonostante tutto non potrò più amarti
E mi prendevo in giro 
Avevi tutta la vita davanti e lo capivo
嘘の半分は真実にはならない
だから色々あったけど僕はもう君を愛すことはできなくて
僕は混乱してた
君には君の生き方があるって、僕は知ってた 
 
La metà di ciò che penso non l'ho scelto solo io
Perché credere di amarti non sa bastarmi
anche stringendoci 
O parlandone e negandolo
僕が考えることの半分は僕だけが選んだんじゃない
だって、君を愛していると信じているだけでは足りなくて
抱きしめても、
話し合っても、否定しても、足りなくて
 
Ripenserai ancora 
a tutto il bene che
Ti ho dato solo e solamente io 
君は後悔するだろうね
私が、そして私だけがしてあげた
すべてのことを考えて
 
Ripenserai ancora 
a quanto il niente tuo 
Per me fu tutto 
君は後悔するだろうね
君にとってなんでもないことが
僕にとっては全てだったことを考えて
 
E per sempre hai perso un pezzo di me 
E lo sai che son stato troppo buono 
Ma che, stanco ormai, non posso più
君は永遠に僕のかけらを失った
僕がとてもいいやつだったって知ってるだろう?
でも僕はもう疲れたよ、これ以上は無理
 
Tutto quello che ho sbagliato lo so bene anche io
Ma non sono mai arrivato a sentirmi così tanto inutile
E in tempi avversi
Ti salvai la vita tante volte, non ti accorgesti
僕が間違えた全てのことは僕もよく知ってるさ
でもこんなにも無力に感じたことは一度もなかった
うまくいかない時に
僕は君を何度も救ったんだよ、君は気づかなかったね
 
Ripenserai ancora
a tutto il bene che
Ti ho dato solo e solamente io
君は後悔するだろうね
私が、そして私だけがしてあげた
すべてのことを考えて
 
Ripenserai ancora
a quanto il niente tuo
Per me fu tutto
君は後悔するだろうね
君にとってなんでもないことが
僕にとっては全てだったことを考えて
 
E per sempre ho perso un pezzo di me
E lo sai che son stato troppo buono 
Ma che, stanco ormai, non posso più
僕は永遠に僕のかけらを失った
僕がとてもいいやつだったって知ってるだろう?
でも僕はもう疲れたよ、これ以上は無理
  
È vero è complicato odiarti 
Nessuno al mondo può negarlo
Tanto meno oggi io, e
君を憎むのはとっても難しいと知ってる
この世界の誰一人それを否定できないし
ましてや今の僕だってできやしない
 
È vero è complicato amarmi 
Né io né te ci riusciamo 
Io da sempre, tu per niente
僕を愛するのは難しいと知ってる
僕も君もできやしない
僕はずっと、君はこれっぽっちも
 
Ripenserai ancora
a tutto il bene che
Ti ho dato solo e solamente io 
君は後悔するだろうね
君にとってなんでもないことが
僕にとっては全てだったことを考えて
 
Ripenserai ancora
a quanto il niente tuo
Per me fu tutto 
君は後悔するだろうね
君にとってなんでもないことが
僕にとっては全てだったことを考えて
 
E per sempre ho perso un pezzo di me 
E lo sai che son stato troppo buono 
Ma che, stanco ormai, non posso più
僕は永遠に僕のかけらを失った
僕がとてもいいやつだったって知ってるだろう?
でも僕はもう疲れたよ、これ以上は無理
 
 
解説*1
 
Tiziano Ferroの歌は深いようで良くわからないようで深いようでやっぱり意味不明とイタリア人の間でも有名です。そしてそこが魅力の一つとも言われています。実際にこの歌もあんまりロジカルでないところがあって、簡単そうに見えて突き詰めて考えて見ると結構難しいところがあります。私も本当に理解しきれたのかわからないところがありますが、頑張って解釈(解読?)してみたので私の解説(解釈)を書いていきたいと思います。
 
1.歌の背景ーどんな歌なのかー
 
おそらく、 とても愛していた人と分かり合えず、頑張ったけど疲れてしまって、その疲れに耐えきれずにどうしようもできずに別れを決意する人の話です。語り手は、相手を心から愛しているのですが、相手が自分にあっていないことを自覚しており、その狭間で悩み続けているのです。愛と理解のジレンマということですね。
 
愛は時間とともに形を変え、それがもはや愛かどうかもわからなくなってしまうことってありますよね。ただそれに気づいていてもなかなか次のステップに踏み出せない。愛しているはずなのに分かり合えず、混乱して、ただひたすら自分が一人で悩み続ける。特に長く一緒にいればいるほど、思い出や記憶に引っ張られて、今うまくいっていなくても、なんかうまく理解できなくても、僕は相手を愛しているに違いないから頑張る。そんな人に向けられている気がします。
 
この歌の語り手はそうしたジレンマに悩み、ようやく決意を固めて次の一歩を踏み出すというところにいるのだと思います。歌のサビに「もう無理、疲れた」とあるように、そうとう滅入っている様子が伝わってきます。また、相手が自分を理解してくれないことへの恨み節も炸裂しています。愛と理解のジレンマで苦しみぬいた人の苦渋の決断を歌にした名曲と言えるでしょう
 
2.フレーズ解釈
それでは具体的なフレーズも見ていきましょう。この歌は最初から最後まで通して、一人の語り手が相手に話しかける、または自分で苦悩するという形で進みます。
 
La metà di una bugia non fa la verità
嘘の半分は真実にはならない
最初はMAJIDE意味不明でした。はじめは、そりゃそうだろ、という印象しかもてませんでした。ただ、聞いてみたところ、どうやらこのフレーズは結構深いらしいのです。実は、これは、解釈するのなら、「半分真実、半分嘘の話はそれは決して真実ではなく、嘘でしかない」という感じになります。ここで問題になっているのは、語り手が愛している人物の発言だと思います。おそらくその相手は、本当のことも言っているけどその半分くらい嘘も言っており、その本人の自覚としては、「本当のことを伝えている」という心構えでいるのでしょう。これを語り手が諌めている感じだと思われます。つまり、「君は本当のことを言っていると思っているだろうけど、そこには嘘も入っていることを僕は知っている。そして一つ言わせてもらうのなら、嘘が混じっている時点で、それは事実ではなく、嘘でしかないんだよ」ということです。例えば、相手があなたのことを「愛している」といったとしましょう。でもそこに一抹の嘘(や不安、迷い)などが入っていたとすればあなたにとってそれはもう嘘でしかないということになります。真実は少しの嘘によって崩れてしまうということですね。気持ちにおける真実とは難しいのです
 
Quindi nonostante tutto non potrò più amarti
E mi prendevo in giro 
Avevi tutta la vita davanti e lo capivo 
だから色々あったけど僕はもう君を愛すことはできなくて
僕は混乱してた
君には君の生き方があるって、僕は知ってた 
もう相手の言うことが真実か真実でないかがわからなくなった語り手は相手を愛すことができないと思っている場面です。"mi prendevo in giro"は直訳すれば「自分自身をからかう」とでもなりますが、ここでは、「混乱していた」くらいになるでしょう。愛されているのか愛されていないのか、もうわからなくて自分で何をしたらいいのかわからなくなっていた、つまりは混乱していた、くらいの意味でしょう。"avevi tutta la vita davanti"は「あなたは全ての人生を前に持っていた」ですが、ここでは「君は君の生き方を貫きとおしていた」「君には君の生き方がある」くらいの意味でしょう。語り手は相手の生き方が自分の理想とするものとは違い、またそれを、相手が語り手の気持を考えること無く貫き通すことに嫌気がさしていたのです。愛する相手の生き方が自分の生き方とは相容れないものであると知ったときの悲しみは底なしでしょう
 
La metà di ciò che penso non l'ho scelto solo io
Perché credere di amarti non sa bastarmi
anche stringendoci 
O parlandone e negandolo
僕が考えることの半分は僕だけが選んだんじゃない
だって、君を愛していると信じているだけでは足りなくて
抱きしめても、
話し合っても、否定しても、足りなくて
 「僕が考えることの半分は僕だけの選択ではない」というも深いですよね。語り手は相手を好いているので、当然のように相手のことを考慮しながらいろいろなことを考えていた、ということになります。
そして、「君を愛していると信じているだけではたりないんだ」とくるわけですね。愛されたいという気持の表れです。抱きしめても、話しても、否定してもたりない、というのも深くていいですね。何をしても相手の反応がうすいということでしょう。相手を否定することで相手の反応を待ってみてもダメだとなると、辛いものがあります
 
Ripenserai ancora 
a tutto il bene che
Ti ho dato solo e solamente io 
君は後悔するだろうね
私が、そして私だけがしてあげた
すべてのことを考えて
そしてここで恨み節炸裂です。
 
Ripenserai ancora 
a quanto il niente tuo 
Per me fu tutto 
君は後悔するだろうね
君にとってなんでもないことが
僕にとっては全てだったことを考えて
ここの"il niente tuo(あなたのなんでもないこと)"には二つの解釈があると思います。単に相手が何も特別なことをしなくても私は良かった、という解釈と、相手は何にもしなかったけどそれでも私は良かった、という解釈です。相手をどれだけ大切に思っていたのかというポジティブな気持と、相手が何もしてくれなかったというネガティブな気持が交錯しています。
 
E per sempre hai perso un pezzo di me 
E lo sai che son stato troppo buono 
Ma che, stanco ormai, non posso più
君は永遠に僕のかけらを失った
僕がとてもいいやつだったって知ってるだろう?
でも僕はもう疲れたよ、これ以上は無理
ここでついに曲のタイトルである"troppo buono(いいやつ)"が出てきます。自分のことを「いいやつ」と言いきってしまえるところが、いかに相手と語り手との関係が対等なものではなかったかを表しています。ちなみにtroppoは「〜すぎる」なので、正確には「いいやつすぎ」と訳すのがいいかもしれません。「いいやつ過ぎる」と言うことで、自分への皮肉も込めているのかもしれません。
 
Tutto quello che ho sbagliato lo so bene anche io
Ma non sono mai arrivato a sentirmi così tanto inutile
E in tempi avversi
Ti salvai la vita tante volte, non ti accorgesti
僕が間違えた全てのことは僕もよく知ってるさ
でもこんなにも無力に感じたことは一度もなかった
うまくいかない時に
僕は君を何度も救ったんだよ、君は気づかなかったね

そうです、語り手は自分の過ちを自覚しているのです。そしてきっとその過ちを何度も正そうと努力をしたということになります。それでも「無力に感じた」というわけですから、相手がその努力を認めてくれなかったか、相手は語り手の過ちばかりを責めていたかなのでしょうね。 

 

È vero è complicato odiarti 
Nessuno al mondo può negarlo
Tanto meno oggi io, e
君を憎むのはとっても難しいと知ってる
この世界の誰一人それを否定できないし
ましてや今の僕だってできやしない
語り手は結局相手への気持がなかなか断ち切れないことを歌っています。
 
È vero è complicato amarmi 
Né io né te ci riusciamo 
Io da sempre, tu per niente
僕を愛するのは難しいと知ってる
僕も君もできやしない
僕はずっと、君はこれっぽっちも
ここは自己嫌悪ターンです。語り手も「自分のことをずっと愛すことができない」と言っているのですね。次の「君はこれっぽっちも」に哀愁が漂います。
 
3.無理に誰かを愛さなくてもいい
この曲は、愛している人に相手にされず、悲しさ・虚しさ・怒り・虚脱感等々の気持が入りまじった語り手の気持を歌っています。この曲では語り手側から終止符を打つことになるわけですが、ここでの気持は、相手側から終止符を打たれた場合にも有効であると思います。
好きな相手とうまく行かず、相手からコテンパンに言われ振られるという経験をしたことがある人ならよく分かると思いますが、そういう時に考えてしまうのは「あの時、ああすればよかった」「あの時私が間違えてしまった」といった類のことです。そして、こういう時、全てを自分のせいにしてしまいがちです。でも、そもそもうまく行かなかったのであれば、あなた一人のせいではないのです。関係とは二人で築いていくものですから
愛は盲目とは言ったものですが、どうしようもない無力感や虚脱感を相手に対して感じたときは、その人をもう無理に愛する必要はないと思います。相手にとっても、そして何よりも自分にとって不幸なことです。
陳腐な終わり方ですみませんが、以上です。
イタリア語がわかる方もわからない方もぜひtroppo buonoを聞いてみてください。
 
 
 
 
 
 
 

*1:解説と言うよりは解釈といったほうがいいかもしれませんね

「どうしてイタリアに留学したんですか」という問いが難問すぎる

私はいつなんどきも何かに頭を悩ませている。

「今日の晩御飯は何にしようか」とか「シーチキンマヨネーズの「シーチキン」は何なんだろうか」とか「なぜお祭りの屋台はチョコバナナのことをバナナチョコと書くのか」とか、もうそれはそれはたくさんのことで悩んでいる。

日常生活は難問に溢れている。世の中はこんなにも生き辛い。

 

皆さんにとってはその多くはくだらない悩みかもしれない。

確かに、私にとっても今日の晩ご飯はどうでもいい。どうせ今日もやっすいやっすいお弁当を食べることに落ち着く。相場は決まっているのだ。

 

でもシーチキンとか、バナナチョコとかは結構大事な問題だ。わからないことがあるとなんかむずがゆい。

 

シーチキンはきっと「シー」と「チキン」で分かれるんだと思う。「シーチ、キン」でも、「シーチキ、ン」でも、はたまた、「シ、ーチキン」でもなかろう。

「シー、チキン」ということであれば、そのまま「海の鳥」ということでいいんだろうか。

でも、あれはマグロかカツオだ。鳥は関係ない。「シーツナ」とか言ってくれないとややこしい。「シーチキン」をチキンだと思って買ってしまったら、それは訴訟ものだ。

 

バナナチョコなんてもうそれはそれは本当にむずがゆい。ムズ・ガユイ。

あのチョコがかかった細長い物体は、どこまでいっても「バナナ」だ。あれは「チョコがかかったバナナ」であって、「バナナが下に添えられているチョコ」ではない。断じてない。

「ふりかけご飯」は決して「ご飯ふりかけ」ではないし、「男子トイレ」は「トイレ男子」ではない。

全国のバナナチョコ屋さんは今すぐ改名していただきたい。

 

 

 

 

 

そんなことはどうでもいいんじゃ!!

 

 

 

そんなことが言いたくてこの記事を書き出したわけではない。本当に困っているのは別のことである。

 

私はイタリアに留学したことがある。そしてそれを私の唯一のウリだと思って、自己紹介のときにも「私、イタリアに留学したことがあるんですよ」となんの気無しに言う。

すると当然相手はこう返してくる。

 

 

「どうしてイタリアに留学したんですか」

 

 

意気揚々とドヤのドヤ顔で留学を自慢した私は、あっという間にこの一言で窮地に立たされる。

いつもそう。相手の一言ですぐに背水の陣となる。簡単に見えてこの質問は難問中の難問なのだ。

というのもイタリアに留学を決意した理由がさもしいからだ。

「イタリアに留学した理由」など決まっている。

 

 

 

 

「イタリアがかっこいいから」だ。

 

 

 

 

その当時の私には、イタリアが輝いて見えたのだ。しかも「なんとなく」輝いて見えた。でも、そんなことを言ったら、ミーハーのミーハーであることがバレ、イタリアに留学したことがウリになるどころかこちらの人間性及び人格を疑う一つの材料になりかねない。

だから、口が裂けても、「イタリアはかっこいいと思ったからです」とは言えない。

こんなこと、もしかしたら小学生でも言わないかもしれないし、小学生が言ったとしても一笑にふされるかもしれない。それくらいこの発言は超絶ミーハーの極みだ。

そこで、私はいつも苦し紛れにこう答える。

 

 

「い、いや、その、イタリア文化とかイタリア語とかに興味があって...」

 

 

皆さんは「なんじゃその答えは」と憤りになるかもしれない。そう、その通り。これは何の意味もない陳腐な答えだ。イタリアに留学に行く人は、そりゃあイタリアの何かに興味があるからだ。

したがって、これ以上陳腐で無意味な回答はこの世に存在しない。

「私は男か男じゃないかのどちらかだ」という真でしかありえないトートロジーの命題より意味がない。それくらい意味がない。

 

 

上記のような回答をすると、決まってこう聞かれる。

 

 

 

「どんなイタリア文化に興味がお有りなのですか」

 

 

 

ここで私は早くもノックアウト寸前である。背水の陣をひいていた私はもう半身くらいは水に浸かっている。

ミーハーは、イタリアがかっこいいとしか思って無くて、文化など一ミリも知らない。

でもそれを正直に言う気概も勇気もない人がミーハーなわけで、私はもうどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ。

そしてミーハーは留学したこと、ただそれだけの事実が何か高尚なことだと思ってついつい自慢してしまう。

お母さん、ミーハー生まれてごめんなさい。世の中はミーハーに厳しいみたいです。

それでもなんとか生き延びねばならぬ。そこで私はこう答えるのである。

 

 

 

「いやー、いろいろなことに興味があったんですけどね、イタリア語が難しくてなかなか勉強できなくて...ところで、今日はとても寒いですね」

 

 

 

雑に華麗にそして急に緩やかに話題を転換する。もう、私に残されたコマンドは「醜く美しく逃げる」しかないのである。背水の陣をひいたあとは、華麗に水に飛び込み泳いで逃げる、これに尽きる。

三十六計逃げるに如かず

 

こちらからドヤ顔でイタリアの話を振り、イタリアの話題から無残に逃げる様は、さながらサバンナの雄ライオンのよう。獲物に食いついて、早々に諦めるあのライオンのよう*1

 

ですから、この記事を書くことで、留学を考えている皆さんにこれだけは言いたいと思います。

 

 

 

 

 

バナナチョコはチョコバナナですよ、と。

 

 

 

 

 

 

ん?

 

 

 

 

 

(追記)

とは言ったものの、明確な目的をもって留学しなければならないということもないと個人的には思います。あとから見つかる目的もありますから。目的うんぬんより、若いうちはその時やってみたいと思ったことをやるのが一番いいと思います。そこから得られるものは大きいのです。

 

 

とアラサーが申しております。それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:いや、そもそも私みたいな小市民とライオンを比べるのは、ライオンに失礼である。ライオンは百獣の王という称号を持っているが、私には何の称号もないのだから。ライオンは「生きるために」果敢に狩りに挑んでいるのに、私は「自分を大きく見せるために」無謀な発言をしているだけなのだ。

伊太利亜浮気話

むかーしむかし、とおいとおい島国のイタリイという国に、ジョバンニという若いおとこがおったそうな。背たけはそこまで高くなかったのだが、立派なヒゲをたくわえたがたいのよいおとこだったそうな。村でも彼のことを好きな人が多いとか多くないとかいわれて騒がれておったのじゃ。

 

そんな彼にはマルコという背たけの高い、ブルーアイヅの友人がおった。マルコは当然村でも大の人気者じゃった。ジョバンニとマルコはお互いにとても仲がよく、よく一緒にピザを食べたり、タバッコを吸ったりしておったのじゃ。

 

そんなある日、二人は一緒にデスコに行くことになったのじゃ。デスコをしっておるか。イルメネーションやメージックが混じり合い弾け合うたいそう暗い部屋で、おとことおんなが互いに手をとり、腰を振り合いながら踊り合う、それはそれはふしだらでみだらなところじゃ。そこに二人で出向くことになったんじゃな。

 

ジョバンニには、村でも一番可愛いとか可愛くないとかいわれておったアンナという恋人がおった。アンナはジョバンニがデスコに行くことをたいそう心配しておったが、ジョバンニはこういったのじゃ。

 

「アモーレ、君が世界でいちばん美しい。僕は君以外のだれともいたくないよ。決して君以外の女性と踊ったりなどしない」

 

このことばに安心したアンナはジョバンニがデスコに行くことを許可したのじゃ。

 

さて、デスコについたジョバンニとマルコは、さっそく飲めや踊れやの大騒ぎを始めた。そこへやってきたのは一人の美しいおんな。このおんなはマルコを誘い、二人は一緒に踊り始めたのじゃ。ジョバンニはそのおんなの美しさに見惚れてしまい、そのおんなとベッドにいきt一戦を交えたいと思っておった。しかしマルコは結局最後までそのおんなと踊りつづけてしまった。

 

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どこで一戦をまじえるかって? ラブホというものがあってじゃな...

 

そしてハレンチでハイカラな一夜が終わり、二人は歩いて家までかえることになった。どうしてもベッドにいきたかっt一戦を交えたいと思っておったジョバンニは恨み節のようにマルコにこう言った。

「マルコ、あの美しい女と踊るなんて、最低だ。僕は君を見損なったよ」

しかし、この一言に納得のいかないマルコはこう言い返したのじゃ。

「なんでだい。君には関係ないではないか。それに、僕が誘ったんじゃない、向こうが誘ってきたのだよ」

するとジョバンニは

「僕が美しいと思った女性なのだ。君はその誘いを断るべきだったのだよ」

というではないか。マルコはわからないなという顔でこうたずねた。

「僕はフリイ、君は彼女持ちだ。君はそのようなふしだらなことを言うべきではないよ、僕は踊っただけだし、なんの問題もない」

するとジョバンニは言うのじゃ。

「僕が美しいと思ってベツドに行きたいと一戦を交えたいとおもった女性なんだ。君は彼女と踊るべきじゃなかったんだ。僕は本当に傷ついたよ」

 

さすがにジョバンニの悲しみに気づいたのか、マルコは

「そうか、それは申し訳ないことをした。君が彼女とベッドでふしだらな踊りをできるようにアシストをしなければならなかったね」

と言ったのじゃ。これをうけたジョバンニは

「気にするなよ、アミイコ。誰にでもミスはあるさ。大事なのは、そのミスを認め謝ることさ!」

と言い、マルコの肩をポンポンとたたいた。

「ジョバンニ、お詫びに一杯おごるよ、そこのバールに入ろうじゃないか」

 

こうして二人は夜もふけた町にまた繰り出していくのじゃった。

 

遠い異国のイタリイのおとこたちは、浮気もので有名じゃ。

実話じゃ。

 

めでたし、めでたしだの。

 

 

これからの「お尻」の話をしよう

諸君は、お尻というものを知っているだろうか。もちろん、知っていると思う。お尻は右足と左足をつなぐ大事な器官であると同時に、その両足を前に後ろに動かすという重要な役目を果たしている。お尻なくしては諸君は歩けない。それくらい大事な部位である。

 

それでは、これから諸君にお尻の話をしよう。しかし何も、お尻そのものにアプローチをするわけではなく、イタリア語という観点からお尻について語っていくことにする。そして、イタリア語にとってお尻という存在がいかに不可欠な存在であることを明らかにする。さらにそこから、いかにイタリア語のお尻が危険性を帯びた存在であるかということ、諸君がどのようにそのお尻に向き合う必要があるのかということについて語る。今日の講義の目的は、諸君のお尻に対する心構えについて語ることである。

 

イタリア語にはお尻を使った表現が山のようにある。あるイタリア人をして、「イタリア人は二言目にはお尻だから」と言わせしめたほど、お尻という語で溢れている。イタリアという世間にはお尻が氾濫している。これを、ここでは便宜的に「お尻の洪水」と名づけよう。

 

お尻の洪水を構成する表現は多岐に渡る。イタリア語ではお尻のことをculo(クーロ)という。例えば以下のような表現があげられる。

 

prendere per il culo

プレンデレ ペル イル クーロ

「からかう」 

essere culo e camicia

エッセレ クーロ エ カミーチャ

「仲がいい」

che culo!

ケ クーロ!

「ラッキー!」

avere più culo che anima 

アベーレ ピュ クーロ ケ アーニマ 

厚顔無恥」 

leccaculo 

レッカクーロ

「ご機嫌取り」 

In culo alla balena!

イン クーロ アッラ バレーナ 

「頑張って!」

Vaffanculo!

ヴァッファンクーロ 

「クソ野郎!」

 

この件に関しては、既に別の講義で説明した。詳細はその時の講義ノートを参考されたい。

 

 

k-lieux.hatenablog.com

 

さあ、続けよう。ここからが本題だ。こちらから簡単に講義をしてしまってもいいのだが、それではつまらないし、私は何よりも諸君の考える力を大事にしたい。そこでこうしよう。諸君に一つ問題を提起することにする。諸君にはまずそれをよく考えてもらいたい。

 

イタリア語にはparaculoという表現がある。paraは「防ぐ」という意味を持ち、culoは諸君も既にご存知のように「お尻」である。それでは、paraculoはどういう意味になるだろうか

 

さて、諸君はこの問題は簡単過ぎる、と思うかもしれない。確かに無理はない。paraは「防ぐ」という意味を持ち、culoは「お尻」なのだから、フレーゲの構成性原理により、paraculoは「お尻ふせぎ」となる

 

しかしここで一度立ち止まってみよう。イタリア語における「お尻」は洪水であると先に述べた。そう、「お尻防ぎ」と答えた諸君はこの洪水に飲まれてしまっている。

 

確かに、paraは「防ぐ」という意味を持つ接頭辞である。paracadute(パラカドゥーテ)はcadute(落ちる)ことをpara(防ぐ)で「パラシュート」という意味になる。paradentiはdenti(歯)をpara(防ぐ)ので「マウスピース」、paracarroはcarro(車)をpara(防ぐ)で「車止め」である。諸君が、類まれなるこういったイタリア語の知識を動員して、paraculoを「お尻防ぎ」と考えたことには敬意を表したい。しかし、残念ながら、paraculoは「お尻防ぎ」ではない。聡明な諸君は「お尻防ぎ」に違和感を感じていたはずだ。その意味不明な表現はなんだと*1

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それでは、paraculoは一体何であるのか。もし諸君が日伊辞書を所持しているのであれば、parareという項目を引いてもらいたい。そこには「防ぐ」の他に、「差し出す」という意味が載っているだろう。そう、鋭敏な諸君はお気づきのはずだ。paraculoは「お尻を差し出すこと」であるということに。これなら意味が通る。字義通りにとればいい。「お尻を差し出す」ときに使うのがparaculoだ。

 

しかし、無知の知を知るすいびんな諸君はお気づきのはずだ。こんな表現を使う機会などほとんどないということに。これがイタリア語におけるお尻の洪水である。諸君はこうした洪水に飲まれてはいけない。イタリア語のお尻は字義通りの解釈などではない

 

それでは、paraculoとは一体何であるのか。答えをお教えしよう。一言で言うのであれば「ご都合主義者」である。なんにでも自分の利益になるように振る舞う薄っぺらい人間のことを言う。そう、意味不明である。お尻である必要性はどこにもない。

 

お分かりいただけただろうか。イタリア語においてculoは至るところに登場するが、その意味はもはや人智を越えた第7宇宙の真実のその先にあるといってよいのだ。お尻に惑わされては、イタリア語学習はままならない。イタリア語を的確にかつ柔軟に学ぶためにはこうした身近なお尻の洪水に飲まれてはならない。常にお尻を疑い、日々お尻の裏の意味を捉える必要がある。諸君は常に気を張り、一つ一つのお尻に真摯に向かい合わなければならないのである。

 

本日の講義はここまでとする。それではまた次回。

*1:イラストはHさんからの貰い物だ